この記事では、元文科省大臣で政調会長に就任した渡海紀三朗(とかい きさぶろう)氏についてご紹介しています。
渡海紀三朗氏は、一級建築士として15年間サラリーマン経験をしていたことをご存知ですか?
ここからは渡海紀三朗氏の経歴や政治家だった父親についても詳しくご紹介していきます。
渡海紀三朗の経歴(一級建築士)
それでは、渡海紀三朗氏の経歴についてご紹介していきます。
渡海氏は政治家になる前は、15年のサラリーマン経験があり一級建築士として勤務されていました。
日建設計に就職
渡海氏は、1970年3月大学を卒業後、株式会社日建設計に入社しています。
一級建築士の資格を持っていて、約15年間「日建設計」に勤務されていました。
日建設計は称号変更が2回されていますが、1900年(明治33年)から現在も続く大手の設計会社です。
さらにリサーチをしてみますと、日建設計は下記の建物の設計に関わっていることがわかりました。
- 神戸ポートタワー
- さいたまスーパーアリーナ
- テレビ朝日アーク放送センター
- 東京スカイツリー
- 東京タワー
- 東京ドーム
- 東京ミッドタウン
- ホテルニューオータニ大阪
- ホテルニューオータニ幕張
- ポーラ美術館
- みなとみらい21 ほか多数
「日建設計」はこれまで有名な建物の設計に携わっていたことがわかりました。
渡海氏が設計した建物についてはわかりませんでしたが、1985年まで一級建築士として勤めていたようですので、1986年にオープンしたホテルニューオータニ大阪の設計に、もしかすると携わっていたかもしれませんね。
そして、日建設計を退職後の1985年12月に外務大臣安倍晋太郎氏の秘書を務めています。
翌年1986年7月には第38回衆議院議員総選挙で初当選を飾っています。
ここで疑問なのが、なぜ15年も勤務した会社を辞めて政治家へ転身したのか気になりますよね。
次に、渡海氏が日建設計を退職した理由についてご紹介します。
日建設計を退職した理由
日建設計を退職した理由としては、父の渡海元三郎(もとさぶろう)氏が急逝したことがきっかけで後を継ぐためでした。
残念ながら、紀三朗氏が一級建築士として働いていた頃の当時の写真は見つかりませんでした。
また、父の元三郎氏は当時「日本民主党(福田派)」で、建設大臣、自治大臣、北海道開発庁長官などを歴任されていました。
紀三朗氏の父の経歴については後ほど詳しくご紹介いたしますね。
次に、渡海紀三朗氏の学歴についてご紹介します。
渡海紀三朗の学歴
続いて、渡海紀三朗氏の学歴についてご紹介します。
1966年兵庫県立姫路西高等学校出身で、1970年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業され「株式会社日建設計」に入社しています。
紀三朗氏の学生時代について語られていましたのでご紹介いたします。
私の学生時代は学生運動全盛期?であった。
引用元:渡海紀三朗公式サイト
1965年(昭和40年)暮れから学費値上げをめぐって第1次早稲田闘争が勃発。
私が受験した翌66年の入学試験は、学生たちが校舎から持ち出した机と椅子で築かれたバリケードの中で行なわれ、闘争のあおりを受けて入学式は5月1日となった。
当時は全国各地で次々と大学紛争が勃発し、特に首都圏の各所で警察と学生が対峙して激しい闘争が繰り広げられた。学生はヘルメットに手拭いによるマスク、ゲバ棒が一般的なスタイルであった。
上記のインタビューでは、学生運動が盛んだった時代の自身の経験について述べられ、日本の将来について熱く語り合った時代だった学生時代を振り返っていました。
次に、渡海紀三朗氏の父についてご紹介します。
渡海紀三朗の父
続いて、渡海紀三朗氏の父についてご紹介します。
紀三朗氏の父は、渡海元三郎(とかい もとさぶろう)さんという方で元政治家でした。
元三郎氏は、京都帝国大学法学部を卒業した後にブリヂストンタイヤ、川崎重工に勤務していました。
親子でサラリーマン経験をお持ちだったんですね。
会社員を辞めた後は、地元で鋳造業の経営をされていたことがわかりました。
経営されていた鋳造会社の情報が見つかりませんでしたので、会社をたたんで政治の道へ進まれたのかもしれませんね。
その後、元三郎氏は1983年の第37回衆議院議員総選挙では落選し、1985年5月に70歳という若さで亡くなられています。
お父様が亡くなられて、すぐに紀三朗氏は政治の道へ進まれていますので、一級建築士になる前から政治家への道に進むことは元々考えていたのかもしれません。